あいたむblog

ワインと音楽とアートと写真が好きなあいたむの日常。 たまたま見つけた誰かのために残しておくメモ。

カテゴリ: PHOTO




原宿のAM(http://am-project.jp/) にて開催されていた
石川竜一氏の写真展『okinawan portraits 2012-2016』とトークイベント に行ってきました。



以前どなたかに紹介されてみた『絶景のポリフォニー』を見て、
なんとも言えないリアルさに心が締め付けられたのを覚えています。
それから川崎市民ミュージアムの木村伊兵衛賞 40周年記念展でプリントを初めてみて、
サイズの大きさや独特のライブ感に、ゾクゾクしました。
少しマイノリティーな、でも非常にリアルな、沖縄の人々のポートレイト。
普段旅行では見ることができないかもしれない、自分とは真逆の世界観が映し出されていて、
それから、沖縄を題材にして撮影した写真家たちの写真を幾つか見るようになりました。

私の感じたこの衝撃は、大和とウチナーという、外から見た世界と、内側から発する世界にいるという立ち位置の違いなんだろうか、と思っていました。

でもそれは、それ自体がステレオタイプな発想なんだな、と、石川さんのお話を聞いていて分かりました。



石川さんは、ご自身で、
「写真を撮ることでこの世界で生きている気がして」、
「どこに行くにも、郵便ポストに郵便を出しにいくのでも、カメラが無いと何となく落ち着かない」
とおっしゃっていました。
また、写真を撮る意味については、
「人とコミュニケーションを図るために必要なもの」で、
ポートレイトを撮るときにも、ある程度会話をしてから撮影されているようです。
また本当に撮りたいと思った人には、何年もかけて交渉するなど、なかなか熱心だと思いました。
でも途中で、「撮影したいからその人に会っているのか、その人に会いたいから撮影しているのか分からなくなるという悩みがある」ということもおっしゃっていて、
対象となるモデルの人にそこまで執着されるのはすごいと思いました。


自分は写真を見るのも好きだし、撮るのも好きだけれど、完成するモノにばかり気を取られてしまって、
撮られる人とどうコミュニケーションをとるか、までは頭が回っていないことが多いです。
意識が自分の中にあって、その中で誰かや何か対象物を捉えようとしてしまうのだと思います。
そのため、写真における客観性(主観の排除)をどうすれば表現できるのか?をずっと課題に感じているのですが、お話を聞いていて、どちらかというと、相手の中に入り込んでいく作業がより重要なのかもしれないと思いました。
最終的には自意識が投影されてしまうとしても、その人の瞬間をどう引き出していくか、には相手を理解するというか受け入れることが大事なのかもしれないと感じました。

最後に少しだけお話をさせていただいたのですが、あまり難しく考えずに、
自分の好きなものや好きな人たちをずっと追っかけていくといいと思う、ということをおっしゃっていました。
この言葉は、私が大好きな写真家のMOTOKOさんも同じ意味のことをおっしゃっていて、
多分自分に今一番欠けていて、取り組まなければいけないことなのかもしれないな、と思いました。


最近持ち歩いてるチェキで撮影させていただきました。
恐れ多い。
『楽しく撮っていきましょう』と言っていただいた。
何だか今年1年かかっていた呪いが解けたような気がしました。
がんばろう。



今年はなんだかんだで写ルンですをすごくよく使ってました。
写ルンですは気軽に撮れて、その場ですぐ見れないから
後から見返してみて、
「なんでこれ撮ってたんだろう・・・?」
というちょっとした迷子気分になるのもまた面白いところだと思うんです。

が。

簡単にプリントできないのが結構しんどいです。

デジタルならオンラインでプリント注文できて、
A4サイズでもリーズナブルな業者さんがいくつかありますが
写ルンですは、フィルムなので、カメラ屋さんに行って現像をお願いする必要があります。
まぁキタムラとかヨドバシでもできるんですけど。

私が高校生の頃ってクリーニング屋さんとかスーパーとかで気軽に現像をお願いできてた記憶があるんですが、まだやっているのかな?
そもそもクリーニング屋さんが東京都心にはあまりない。

最近自分がよく行っているのは、渋谷にあるフォートウエノさんです。
http://photo-ueno.sakura.ne.jp/
東二丁目なので恵比寿からの方が多少近いのかな。
ちょっと歩くんですが、すごくちゃんとしてくれます。
こんなへっぽこカメラ女子のインスタントカメラの現像をしていただいて本当にありがとうございます。

あともう1件は恵比寿の大沢カメラさんです。
http://www.oosawacamera.com/
中古のカメラやレンズの取り扱いがあり、フィルムも各種販売されています。
プリントも通常のプリントから特殊のプリントまで様々な取り扱いがあります。
色の指定なども好みに合わせてくれたりするので、頼れるお店です。

ポパイカメラも行ってみたいけれど人気があっていつも混んでるので退散してしまう。
でもすごく素敵な写真を撮るお友達がそこで現像しているそうなので近いうちに行ってみます。

どこかお勧めのカメラ屋さんがあったら教えてください。

 



来年、京都造形芸術大学が開催している芸術学舎のプログラム
「ゼロから始める写真集づくり」
に参加する予定です。

写真集を「写真を撮影する技術」「写真を作品として構成する力」を学ばせていただけるそうです。
先生は大好きな赤城先生とタカザワ先生ですが、たぶん当日超緊張すると思う。

2015年、2016年と
自分なんてまだまだっす・・・
と思いながら、でも制作欲は徐々に、一定数、存在していて

もし自分が写真集を出すとしたら、作品制作をするとしたら、何を主題にするか?
を今年1年考えていました。

正直な話、今年は写真撮影をする行為に対し、
精神的にストレスを感じることが多く、
一時期は全くカメラを触っていませんでした。

ただ、そんなときに巷で見かけた「写ルンです」を何の気もなしに買ってみて、なんとなくカチカチやってみた所、
その気軽さに救われたと言うか、写真を撮るときの楽しさみたいなものがよみがえってきたんです。

私にとっての「写真撮影」の原点は絶対に「写ルンです」で、高校時代には毎日インスタントカメラで写真を撮って、
それこそプリクラ撮るよりぜんぜん嵌っていました 。

「いちばん自分が落ち着ける場所」はもしかしたらここかもしれない…
そんな風に考えて最近はやけにインスタントでパシャパシャやってます。


で、そんな自分が何をテーマにするのか、と言うことを考えたときに撮りたいのは
「404.Not Found.」的なものかな…と思いました。

このキーワードは、ある種死のキーワードだと思っています。

自分が僭越ながら10年以上インターネットという空間の中で生き、生業としていること。
そして必ず向き合わなければならないサービスの死、クローズ、ということ。

建物を壊すのはある程度時間がかかると思いますが、ネットの世界では一瞬で全てが無になります。

普遍的なイメージを見つけて、消えていくことの残酷性を、切り刻んで見たいと思っています。

具体的にこれ、と言うことは難しいんですが
例えば下北沢の北口の商店街のような、もう風前の灯、消えること前提で全てが動いている地域とか、
確実に一時代を築いたけれど今となっては誰も口にすることもない、忘れ去られてしまった商品とか、
でしょうか…。

明確なイメージはあるんですがそれをうまく画面として見出す決め手がまだ定まっていないので、変わるかもしれません。

でもやって見たいと思うことのひとつはフィルムで撮ってみるっていうことです。

できるかなー。
やってみたいです。 



今年読んだ本の割合としては、30%写真系(図録や写真集も含む)、30%哲学入門系、30%美術系、10%そのほか、でした。

そのうち、写真系の本の何点かは、多少は自分の言葉で伝えられるかな・・・。
という位には読み込むことができたので、何点かご紹介したいと思います。
第1弾はこちら。

飯沢 耕太郎
河出書房新社
2009-12-11






著者の飯沢耕太郎氏は日本の写真評論を牽引する写真評論家です。

本作は「写真とは何か」という問いに対し、瞬間を切り取る行為を「神話的想像力」「死者(あるいは死、瞬間を殺す)」と結びつけ論じています。
また、写真史における代表作品を読解し、写真表現の魅力と可能性を展開しています。

目次(章タイトル)は以下のとおりです。

序 写真と神話的想像力
1 切断と反覆
2〈写真ショック〉のゆくえ
3 モノに憑かれた写真家たち
4 イポリット・バヤールの呪い
5 コスチュームとしてのヌード
6 寄り添いの作法
7 もう一つの風景写真──柴田敏雄論
8 沖縄の地霊(ゲニウス・ロキ)
9 写真と死者
あとがき

写真の誕生という内容の中で、原理の説明・進化等を体系的に論じられています。

著者の主張で特に印象に残ったのは「沖縄の地霊(ゲニウス・ロキ)」の章における2002年7月6日から28日まで浦添市美術館で開催された「東松照明展:沖縄マンダラ」でのパネルディスカッションの記述です。
東松照明、荒木経惟、森山大道、中平卓馬といった日本を代表する写真家と、島尾伸三、石川真生、石内都、比嘉豊光という沖縄出身の写真家達の言葉の対比は、外側から見た「表象(イメージ)の画」と内側から見た「現実(リアル)な画」の差異を語っています。

暴力的なまでに強烈な「生の沖縄」は次の瞬間には死んでしまうような危うさをはらみ、上側だけ掬い取るような意図ではけして撮ることができない一方で、幻想的な神話性が増す作品を撮ることは、中にいると見えてこないのかもしれないと感じました。

同様の感想を、同じく沖縄出身の写真家である石川竜一の『絶景のポリフォニー』に見たことを思い出しました。彼の作品も暴力的なまでの生の記録であり、大和的視点における『沖縄』という文脈からの境界線を感じたのです。

写真技術という一見誰もが手軽に扱える道具。
作品の中に存在する個々人の想像性、「見る=考える」という行為に写真作品の醍醐味があるということ。
「切断」する側の視点により全く異なる映像として存在し、増殖し続けます。

被写体に対しての意味づけをする行為により作品に新たな存在価値を見出す過程と、受け取る側がどう感じるか。
各々が持つ「神話的想像力」の重要性を実感しました。

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